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菱木晃子さん(北欧児童文学翻訳家)講演より
岩波ホール9Fシネサロンにて.〈エキプ・ド・シネマ〉会員対象の「映画ミニ講座」より抜粋(2020年1月22日)
*故郷スモーランド地方
 みなさん、こんにちは。普段は主にスウェーデンの子どもの本の翻訳をしております菱木晃子です。これまでに『ニルスのふしぎな旅』(福音館書店)などの訳書があり、一昨年からは岩波書店の新訳・新装版シリーズ「リンドグレーン・コレクション」の、「長くつ下のピッピ」シリーズと「名探偵カッレ」シリーズの翻訳を担当しております。また、映画「リンドグレーン」の字幕の監修もさせていただきました。
 さて、まずはここに、スウェーデンの地図を貼ってみました。縦に長い国ですが、全体で日本の約1.2倍の面積があります。人口は900万ちょっとですので、日本の1.2倍の広さのところに神奈川県の人くらいしか住んでいないと考えると分かりやすいかもしれません。
 北欧5カ国のうち、スウェーデンとノルウェーとデンマークは文化的・歴史的にも非常に結びつきが強く、言葉も似ていて、それぞれ王様がいる立憲君主制の国です。スウェーデンの首都はストックホルム、デンマークの首都は、この島(シェラン島)にあるコペンハーゲンです。
 本作「リンドグレーン」の主人公アストリッド・リンドグレーン、旧姓エリクソンが生まれたのは、南スウェーデンのスモーランド地方にあるヴィンメルビーという小さな町です。
 映画の舞台は、最初はヴィンメルビーですが、途中でアストリッドはストックホルムへ移り、コペンハーゲンで子どもを産み、そのまま里親に預けることになります。子どもに会いに行くときは、金曜日の夜行列車でストックホルムを出てコペンハーゲンへ行き、土日を子どもと過ごして、また日曜日の夜に列車に乗って、月曜日の朝ストックホルムへ戻るというパターンでした。
 ところで、スモーランド地方と言われても、みなさん、どういうところかよく分からないかもしれませんね。スモーランド地方は、スウェーデンでもあまり土地が肥えていない貧しい地方でした。リンドグレーン作『さすらいの孤児ラスムス』や『わたしたちの島で』にも、村ごとアメリカへ移住したという話が出てくるくらい、アメリカへ渡った人たちが非常に多いところです。
 スウェーデンの有名な作家セルマ・ラーゲルレーヴが書いた『ニルスのふしぎな旅』では、スモーランド人のことは、「迅速で、質素で、快活で、勤勉で、寛容な、賢いスモーランド人」と表現されています。これは、まさにアストリッド・リンドグレーンにあてはまりますね。神様がこういう性格の人をスモーランド人にしたのは、貧しい土地でもちゃんと生きていけるように、という配慮からだそうです。
 アストリッドが生まれたのは、1907年です。お父さんは教会に雇われて、教会の農場を経営していました。映画の中でも、「ここは教会の土地で、お隣は教区牧師(の家)」というお母さんの台詞がありましたが、当時は家も土地もエリクソン家のものではなく、一家は教会所有の農場主用の家に住み、教会の土地で農業をしていたということなのです。
*子どもの頃から芽吹く文才
 アストリッドは、映画の中でも描かれるように、1924年に地元の新聞社、ヴィンメルビー新聞に雇われることになるのですが、その前の1921年に、彼女が書いた「わたしたちの農場で」という作文がヴィンメルビー新聞に掲載された事実があります。
これはアストリッドの作文があまりにも素晴らしいので、中学の先生が自ら新聞社に売り込んだのだそうです。ブロムベルイ編集長もその素晴らしさを認め、うちの新聞に載せましょうということになり、1921年9月7日に掲載されました。
書いたときは13歳なので、幼く、たどたどしいところもあるのですが、読んでいただければ、「ああ、将来のアストリッド・リンドグレーン、ここに在り」と分かっていただけるかと思います。

「わたしたちの農場で」

 8月の美しい朝です。太陽はちょうどあがったばかり。農場の真ん中の土地に生えているアスターは、露に濡れた重い頭をもたげ始めました。とても静かです。農場はとても静か。人っ子ひとり、見あたりません。でも待って。小さな女の子がふたり、やってきました。ぺちゃくちゃとおしゃべりしながら。本当に静かにしていれば、ふたりの楽しいおしゃべりが聞こえるはずです。
「ねえ、インガ」手に死んだ鼠を持っている女の子が言いました。「この子のために、お墓を掘ってあげましょうよ。それから、お葬式ごっこをしない?」
(中略)
こうして一日は過ぎていき、日暮れになります。でもその頃、農場はにぎやかになります。これは、わたしが請け合います。農場は、笑いながら走り回る子どもたちでいっぱいになるのです。牧師の子もいます。作男の子もいます。庭師の子もいます。小作人の子もいます。「何して遊ぶ? 何して遊ぶ?」と声がします。
(後略)

この作文の子どもたちの生き生きとした描写は『やかまし村の子どもたち』を思わせますし、太陽や花など自然に関する描写も美しいです。
 私がとくに印象に残っているのは、「牧師の子もいます。作男の子もいます。庭師の子もいます。小作人の子も……」のくだりです。当時の社会のヒエラルキーから言うと、牧師は上、作男や小作人は下のほうとなりますが、その子どもたちがみんな一緒に遊んでいるという描写が、いかにもアストリッドらしく、子どもの頃から平等意識に溢れた人だったことが、この作文から読み取れると思います。
 作文が載ったことで、アストリッドは地元で有名人になってしまうのですが、映画の中でも、お兄さんに「この町のラーゲルレーヴ」とからかわれています。『ニルスのふしぎな旅』は小学校の地理の教科書として書かれたものでしたので、その作者であるセルマ・ラーゲルレーヴの名前もよく知られていました。
 さらにラーゲルレーヴは1909年に、スウェーデン人として初めて、女性として初めて「ノーベル文学賞」を受賞しています。当時のスウェーデン社会で女性がノーベル賞を受賞するというのは、それだけですごいことなのですが、その人になぞらえて、アストリッドは「ヴィンメルビーのセルマ・ラーゲルレーヴ」と呼ばれるようになったという逸話が残っています。
 ただ、彼女自身はそう呼ばれることに、あまりいい気持ちはしていなくて、「将来、作家なんかにならないわ」と言っていたようですが、すでにこの頃から文才が芽吹いていたことが分かります。
*ヴィンメルビー新聞での仕事と妊娠・出産
 1924年、アストリッドはヴィンメルビー新聞の社長兼編集長のブロムベルイに助手として雇われ、タイプを覚え、じきに記事も書き始めました。この新聞は週に2回発行のタブロイド判で、当時5000部出ていたということなのですが、ヴィンメルビーの人口が5000人いなかった時代なので、誰がそんなに読んでいたのかしら、という気もします。
 週2回の発行でバラ売りは1部10エーレ、年間購読すると4クローナだったそうです。地方紙なので、もちろん時事ニュースも載るのですが、どこそこの誰々さんが死んでお葬式があるよとか、出産や金婚式といった地元の情報も載っていました。
 アストリッドは1926年に妊娠して、結局その年の8月にヴィンメルビー新聞を退社し、その足でストックホルムへ行くことになります。当時としては、「未婚の母」になることは言語道断でした。逃げて隠れて産むか、あるいは、そのまま残って家族中を恥にさらすか、という時代でした。
 当時のスウェーデンでは避妊具を売ることは禁止されてはいなかったのですが、コマーシャルをしてはいけませんでした。雑貨屋さんで売っていたとしても、看板もポスターも出してはいけません。当然、若い子は避妊の方法などほとんど知らなかったわけで、アストリッドのように望まぬ妊娠をしてしまう若い女性は少なからずいたようです。
 それから映画の中で、ちょっと分かりにくかったかもしれないと思うところがありますので、少し補足します。
 ブロムベルイがアストリッドの家に挨拶に来ますよね。お父さんに、「離婚裁判が片付いたら、あとは簡単だ」みたいなことを言って、「簡単だと?」と言い返される場面がありました。そのとき、ブロムベルイはアストリッドと「誓約を交わす」とも言っていました。
 この誓約というのは、今で言う、婚約とか結納とかにあたるものです。当時のスウェーデンでは、結婚前に子どもが出来てしまった場合でも、親同士がちゃんと結婚の誓約を交わしていれば、生まれた子は父親の名字を名乗れて相続権が持てるということになっていました。ですからブロムベルイが誓約を交わすと言ったのは、当時としては彼なりに誠意を示したと取れる場面なのです。
*息子ラッセとアストリッド
 「ラッセ」という愛称は、アストリッドが考えた独自のものではなくて、スウェーデンではおきまりの「ラーシュ」の愛称です。「ラーシュ」は「ラッセ」、「ニルス」は「ニッセ」というように。『名探偵カッレ』の「カッレ」も、「カール」の愛称です。つまり、アストリッドは息子に「ラーシュ」と名付けて、「ラッセ」という愛称で、生涯、呼んでいたのですね。
 リンドグレーン作品には、『長くつ下のピッピ』のように自由奔放でユーモアに溢れた作品から、『ミオよ わたしのミオ』や『はるかな国の兄弟』のような切なく憂いを帯びた作品まであります。
ピッピやマディケンやエヴァロッタなど、女の子の登場人物はとても元気がよくてチャーミングで、これはもうアストリッドそのものが反映されていると言っていいと思います。
一方、男の子を主人公としたお話では、ミオも、『はるかな国の兄弟』のクッキーと呼ばれている弟のカールも、本当に傷つきやすくて繊細で、それは幼かった頃のラッセに重なるのだと思います。
 そして男の子を主人公にしている作品には、かならず父親役、もしくは父親そのものでなくても、父親として主人公の後ろ盾となってくれるような男性が描かれます。たとえば、『ミオよ わたしのミオ』ですと父親である王様が出てきますし、『はるかな国の兄弟』では、お兄さんのヨナタンがカールを守る役として出てきます。
 映画の中で、「どうして子どもの気持ちが分かるのですか?」という手紙が、年を取ったアストリッドの元に届いていますが、それについて彼女自身が明確に答えるというシーンはありません。答えは、みなさんの想像に任せられているわけです。ただ彼女は姪っ子さんに、「ラッセのことがなくても作家にはなったでしょう。でも、ラッセのことがなければ有名にはならなかったでしょう」と語っていたそうで、作家アストリッド・リンドグレーンにとって、ラッセのことは本当に大きな出来事だったと言えると思います。
*作家アストリッド・リンドグレーンへ
 『長くつ下のピッピ』が初めて世に出たのは、1945年です。第二次世界大戦が終わった年です。
アストリッドは、映画にも出てきますステューレ・リンドグレーンさんと1931年に結婚し、1934年にカーリンという娘さんが生まれます。
その娘さんが7歳の冬、風邪をこじらせ寝込んでしまい、アストリッドは毎晩、枕元でお話を聞かせていました。ある晩、話すネタもなくなり、「何のお話が聞きたい?」と尋ねると、カーリンは思いつきで「長くつ下のピッピ」と答えました。これを受けてアストリッドが即興で「長くつ下のピッピ」という女の子のお話を話して聞かせたのが、そもそもの始まりでした。
 1944年、アストリッドはカーリン10歳の誕生日に、ピッピのお話をタイプで打って本のようにしてプレゼントしました。さらに、もうひとつ同じようなものを作って、ある出版社に送ったのですが、そこからは「うちでは出せません」と断られてしまいました。
 そこで翌年の1945年、手を入れ直してラベーン&シューグレン(Rabén & Sjögren)社という出版社の児童文学作品の懸賞に応募したところ、見事1等賞を取り、その年の11月の終わり、ついに『長くつ下のピッピ』が出版され、たちまち評判となりました。
 その後は、「やかまし村の子どもたち」シリーズや「名探偵カッレ」シリーズを次々と発表し、1954年には『ミオよ わたしのミオ』という全く雰囲気の異なるお話を書き、1956年に書いた『さすらいの孤児ラスムス』で1958年に国際アンデルセン賞を受賞し、世界でも名実ともに認められた作家となっていきます。
 また『長くつ下のピッピ』が出た翌年の1946年に、アストリッドはラベーン&シューグレン社に編集者として雇われ、1970年に定年退職するまで勤めました。今、スウェーデンでは編集者としてのアストリッド・リンドグレーンをもう一度見直そうという動きも出てきています。
*字幕監修を終えて
  今回、字幕の監修をさせていただいたのですが、みなさん、「字幕の監修って、どんな仕事なの?」と思われるかもしれません。今回の映画はスウェーデン語とデンマーク語から成る台本があり、さらに英語に訳された台本がありました。字幕翻訳家の方が英語の台本から付けた字幕を、スウェーデン語とデンマーク語、英語の台本と見比べて、社会的な背景や原語のニュアンスなどを僭越ながら教えてさしあげるというのが、私の仕事でした。英語になった時点で、すでに意味がずれている場合もありますので。
 いちばん大変だったのは、スウェーデン語とデンマーク語が似ていて、でもちょっと違うところをどう表現するかでした。スウェーデン人とデンマーク人なら観れば分かるのですが、日本人が観たときに、その微妙な違いは、かなり分かりづらいだろうと思いました。
 アストリッドがラッセを引き取ってストックホルムへ帰ったときに、親子の会話が成り立たない場面があります。スウェーデン語とデンマーク語は大人同士なら通訳なしでも会話があらかた成り立つのですが、実は日常よく使う単語ほど違いがあって、たとえば「お腹がすいた」という子どもがよく使う単語が同じではないのです。
 ですので、アストリッドが「お腹すいてない?」とラッセに聞くと、「何言っているか分からない」と言われてしまいます。そのあと、アストリッドは一生懸命デンマーク語で、〈お腹がすいたでしょ?〉と言っています。〈男の子〉や〈食べる〉といった単語も、スウェーデン語とデンマーク語では異なります。
 他にも、いろいろと監修で工夫したところはあるのですが、字幕では1秒間に4文字ぐらい入れるのが精一杯です。翻訳の本でしたら、訳者あとがきで説明を補うとか、本文にさりげなく織り込むとかも出来るのですが、字幕の場合、それが出来ないので、いかに短く、でも、みなさんのヒントになるようなことをちょっと込めるのが、監修の仕事としては楽しくもあり、辛くもありました。
 最後に、台詞でひとつだけ、ここはこの訳にしてほしい、と主張したところがありました。
 アストリッドがラッセを連れて実家に帰ってくる場面です。駅にお父さんが迎えに来ていて、「待ってたよ」と言います。英語の台本では、「welcome」です。そして馬車で家へ帰ると、お母さんが台所にいて、アストリッドがラッセを紹介したあと、お母さんも「welcome」と言っているんですね。最初、字幕は「待ってたわ」と付いていたのですが、私としては、あの毅然としたお母さんが「待ってたわ」では弱々しい感じがするので、ここは「おかえり」にしてほしいです、とお願いしました。
 「娘と孫を受け入れてくれるまでは帰らない」と言って実家を出て行ったアストリッドを、最後にお母さんが覚悟を持って孫ともども家族として受け入れる、いちばん感動的な場面ですので、あそこはどうしても「おかえり」にしてほしかったのです。
 今回、字幕翻訳が非常に優秀な大西公子さんでしたので、私が日本語の表現を大幅に直すことはほとんどなかったのですが、本当に字幕の単語ひとつで映画全体の面白さが変わってしまうので、ここはうまくいっているといいなと思っています。